その瞬間には、彼がリバプールのファンたちと自分のマージーサイドでの7年間をどれだけ愛情を込めて思い返すかが、はっきりと現れていた。そしてそれからの30分間に渡る彼の返答の一つ一つの中には、その感情と、クラブを去る際の落胆の感情がにじみ出ていた。
「あの町とあのファンが恋しいよ。」ローマからフルハムへの移籍を完了する数週間前のインタビューで、リーセはこう語る。「(2008年に)去った時は悲しかったし落胆した・・・あの時監督だったラファにだけでなく、自分自身に対してね。もっと長く在籍するために、僕は自分ができること全てをやっていなかったからだ。
同じ場所に7年間もいたら、すごく居心地が良くなる。僕は自分の立場に満足しすぎていて、全力を尽くして努力していなかった。そこに慣れすぎて、懸命な努力をしなければならないと思っていなかったんだ。今はそれを後悔しているよ・・・できればあまり後悔しすぎないようにしたいね。
僕は移籍したいとは思っていなかった。あの時僕は、ベニテスと話をした。彼は僕に、来年は他の左サイドバックを獲得するつもりで、僕の未来はここにはないと直接言ったよ。単刀直入で、僕に率直に語ってくれたことに対して彼に敬意を感じた。それで僕は決心をつけられたんだ。もう1年残ってプレーのチャンスがないという状況は、とても考えられなかった。
彼はアンドレア・ドッセーナに大金を使い、彼にチャンスをたくさん与えるだろうということはわかっていた。それでも僕は、自分は彼よりもいい選手だと思っていたけどね。
あれ以来、僕の代わりになる左サイドバックが大勢いたとは思えない。イングランドの試合に適応できる選手はそうたくさんはいないし、少なくとも昨シーズンはコンチェスキーがいたけど、彼はプレーしていなかったと思う。」
当時20歳のリーセが、モナコからマージーサイドに£4mで移籍したのは10年前。チームはその時カップトレブルを勝ち取ったばかりで、さらなる強化を求められていた。
「あの時の僕は若手で、誰にも何一つ期待されてなかったよ。」彼は振り返る。「クラブに移籍して、誰もが良いプレーを期待している場合は厳しいよね。だから僕は全くプレッシャーがなく移籍して、とにかく自分の仕事をやるだけだった。
僕は自分が何者か、敬意を勝ち取りたかった。だから最初のランニングセッションでは、僕はあそこで一番フィットしていた選手で、一番走ったよ。そしてすぐにタックルもした。敬意を勝ち取りたかったからだ。上手く行ったよ。スティーブン・ジェラードとダニー・マーフィーの2人とも僕にこう言った。僕があれだけ早くグループの中に入って行けたのは、それだけ懸命に頑張っていたからだってね。」
新しいチームメートたちから受け入れられ、間もなくしてリーセはアンフィールドの観客たちからも受け入れられた。
一般的な認識とは反して、それは2001年9月のグディソン・パークでの一撃だった。彼をスティーブ・ワトソンへと変貌させた、「あの」ゴールをKOPたちに予感させる一撃・・・6週間後のマンチェスター・ユナイテッド戦でのフリーキック、その時から高らかに歌われることになるあの歌を確定させたゴールである。
「あれが僕の歌だってことに、すぐには気がつかなかったんだよ。歓声がすごいしアクセントが違うから、ファンが何を歌っているのか聞き取るのが難しいことがあるんだ。」リーセは語る。「試合の後、ものすごく大勢の観客がお前のチャントを歌っていたぞと言われて、僕は何かを返さなければという強い決意を抱いたよ。それができたことを願っている。自分独自のチャントをもらえる選手はそう大勢はいない、リバプールでは特にだ。」
「(ユナイテッド戦のフリーキックは)僕がこれまで決めた中でベストゴールだと思う・・・明らかに僕のリバプールのキャリアの中で、最も重要なゴールだったね。あのおかげで僕はリバプールファンたちの心の中に入り込めたし、自分がやれることを証明できた。
あのゴールは、その後も何回か言われたりしたよ。」
それから10年、リバプールの歴史の中に自分の小さな一章を書き加え、リーセはイングランド・フットボールに戻って来る。彼はフルハムと契約し、これからマルティン・ヨルの元で仕事をする。
彼があのロンドンのクラブに移籍する最初のチャンスが訪れたのは、2001年の夏、リバプールが彼に興味を示すのに先立ってのことだった。
「フルハムと契約する直前だったんだけど、ジェラール・ウリエから僕の代理人に電話がかかってきて、僕を欲しいと言われたんだ。」リーセは振り返る。彼は、ウリエと彼のアシスタントであるフィル・トンプソンと共に、アンフィールドへのツアーに招待された。
「あのスタジアムを見て、あのクラブの名声を知って、選択するのはすごく簡単だった。ジェラールは僕にたくさんのことを教えてくれたし、プレーへの自信を与えてくれた。何か失敗しても、彼はもう一度チャンスをくれた。だから彼にはすごく感謝しているよ。」
ウリエがいなかったら、リーセのキャリアは全く別の道をたどっていただろう・・・しかしこのサイドバックの選手は、2004年にフランス人監督がアンフィールドを去ったことについては、冷静な見方をしている。
リーセの意見では、2001/02シーズンに心臓の手術をして離脱を余儀なくされたことが、ウリエ政権の終わりの始まりだった。
「彼が病気になってから、事態がほんの少し変わったよ。」ノルウェイ代表として96キャップのリーセはこう語る。
「(2002年のローマ戦でウリエが復帰した時は)最初は大きな衝撃だった。病気の間に、彼は身体の面でものすごく変わっていたんだ。本来の状態に戻るまでしばらくかかったと思う。大きな病気を乗り越えた後で、彼はゆっくりとやらなければならなかったからね。
どんなクラブでも、時には変化が必要なんだと思う。リバプールにとって良いことだった。僕は彼の元で満足していたから出て行って欲しくはなかったが、クラブは変化を必要としていた。」
ウリエは選手たちと親しく、ほとんど父親のような関係を築くと評されていた一方で、ベニテスは時にこう言われた・・・良くも悪くも、ドレッシングルームではもっと冷たい存在であると。
では、リーセは2人のどんな違いに気がついたのだろうか?
「実際のところ、かなり似ていたよ。」彼は語る。「彼(ベニテス)はとてもパワフルで、とても強い人間だ。僕たちは彼の元でいくつかトロフィーを勝ち取った。彼は僕に、クラブ・フットボーラーとして最高のトロフィーを授けてくれたよ。チャンピオンズリーグだ。だから彼は、僕が決して悪く言うことはない監督なんだ。」
ベニテスが指揮を執った初年度に5度目のヨーロッパカップ優勝を果たすというのは思いもよらなかったことで、グループステージでのスタートの結果が悪かったためになおさらだった。しかし忘れ難いオリンピアコス戦の勝利が、チームを次のベスト16でのバイヤー・レバークーゼン戦へと導いた。そして次の、人々を唖然とさせたアンフィールドでのユベントス戦。さらにチェルシー戦、リーセの言葉によれば、誰もリバプールが勝ち残るとは予想していなかった対戦。
「オフィシャルがロスタイムを6分と表示したのを覚えているよ。この世で最長の6分間だった。」彼は振り返る。
「あのスタジアムの雰囲気は信じられないものだった。試合の後に、僕はアンダーパンツまで脱いだよ。ファンにあげられるものは全部あげたからね。あの夜を僕は絶対に忘れない。ドレッシングルームの中はクレイジーだったよ。」
ピッチの内外での模範的なプロとして、リーセはアンフィールドにいる間Liverpoolfc.tvの記者たちの人気者だった。理由は、その1)彼はいつも早く来てくれる、その2)彼はいつも何かしら面白いことを言ってくれるからだった。
今日も全く変わらない。そしてこのディフェンダーは、我々の質問が何であろうと楽しそうに答えてくれる。しかし唯一違ったのは2005年5月25日の出来事に触れた時で、彼は椅子の上でそわそわし始めた。
「前半が終わった時は、家に返ることを考えていたよ。ひどい気分だった。」パオロ・マルディーニとエルナン・クレスポのゴール(2)でACミランに3-0でリードされた時の気持ちを尋ねると、リーセはこう答えた。
「僕たちがそれほどひどいプレーだったとは思わない。相手はただ、自分たちのチャンスを全部決めたんだ。」
15分間のインターバルに、リバプールのドレッシングルームで何が起こったのか。それはあれ以来推測と疑問の的になっており、リアルタイムの映画が作られたほどである。
頻繁に出る疑問は二つだ。一つ目は、ベニテスが彼の軍団に果たして何を語ったのか。
「彼はちょっとシステムを変更し、選手を2人変えた。そして僕たちに、ファンの声を聞けと言ったよ。」リーセは語る。「僕たちは歌声に耳を傾け出したんだ。試合前は聞けてなかったからね。」
「彼はとにかく、最初のゴールを決めろ、これ以上は悪くなりようがないんだと言ったよ。3-0だろうと6-0だろうと負ければ同じで、とにかくプレーするだけだった。
ベニテスの話が終わった時に、僕たちに 'You'll Never Walk Alone' の歌声が聞こえて来た。あれが皆を奮起させてくれた。出来る限り早く1点目を取ってやると、燃えたぎってピッチに出て行った。」
2つ目の質問は、アタテュルク・スタジアムのど真ん中にいた人間が頻繁に聞かれる質問だ。伝説のようになった、ミランの選手たちが勝利を祝っていたという話である。
「あの時は僕はイタリア語を話せなかったけど、今はできる。この試合は終わったと話している選手は何人かいたよ。それは当然で、相手は3-0で勝っていたしすごく良いプレーをしていた。」リーセはそう言う。
「でも試合は終わってはいなかった。僕たちがあれを見た後で、彼らを倒すのはすごく気分が良かったよ。それはリバプールが持つ特別なもの、決してあきらめないという気持ちだ。」
スティーブン・ジェラードが3-1となるヘディングゴールを決める、その起点のクロスをリーセは供給し、復活の一翼を担った。
彼はその後、120分間を戦って決着がつかずにPK戦にもつれ込んだ時に、自らキッカーを志願した。
「PK戦に入って、僕は自分たちが勝つと確信していたよ。」リーセは語る。彼はその時には、ウリエ時代の18番から変わってリバプールの6番を着けていた。
「PK戦の前には足が攣っていて、思いっきり蹴ろうと考えていたけど、また足が攣るのが怖かった。僕の前のPKで、ジダが全部同じ方向に飛んでいることには気づいていなかった。僕はかなり上手く蹴ったと思うんだけど、彼に弾かれてしまった。
スティービーが近づいて来て背中をポンと叩いてくれた。ああいう時は最悪の事態を考えるものだけど、それが幸福に変わるのに長くはかからなかったよ。」
幸福というのは間違いなく控えめな表現である。特に、トルコのあの夜がフットボール人生で最高の夜だとリーセが語るのを考えれば・・・しかし信じられないことに、彼はあの試合を見返したことは一度もないのだそうだ。
イスタンブールから1年の内に、Gingeと彼のチームメートたちはもう一度決勝に進出し、また同じことを起こせると証明した。ジェラードが奇跡の一撃を叩き込み、2006年のFAカップ決勝はPK戦にもつれ込んだ。
「僕が最初にベニテスのところに行って、4番目にPKを蹴りたいと言ったんだ。イスタンブールでも4番目だったからね。」レッズで平均して1シーズン50試合弱に出場してきたリーセは、こう語る。「今回はどうしようか、迷いは全くなかったよ。」
「彼ら(チームメートたち)は何も言わなかった。何も。僕はとにかく、できる限り強くボールを蹴ることだけを考えていた。キーパーが触ったとしてもゴールになるようなやつをね。」
リーセの理論は正しいことが証明された。彼はその履歴書の中に、2003年のリーグカップ、チャンピオンズリーグ、2001年と2005年のスーパーカップに加えて、FAカップのタイトルを書き加えることができた。
この栄光のリストに加え、2007年のヨーロッパカップ決勝ではACミランに敗北したが、その時このディフェンダーがリバプールでの最後のシーズンに入りつつあるのを、誰も知らなかった。
なぜベニテスが新しい左サイドバックを獲得しようと決めたのか、その理由は正確には誰にもわからないかもしれない。しかし、2008年のチャンピオンズリーグ準決勝、チェルシー戦での高くついたオウンゴールが、リーセの運命を決めたのかもしれない。
彼が何度も考えるあの夜。
「その場ですぐに、すごく、ものすごく落ち込んだ。
それから3、4日は大変だった。皆がやって来て背中を叩き、気にするなと言う。でもチャンピオンズリーグの決勝を自分がふいにさせることなんて、いったい何回あるだろう?僕は、自分がチームを落胆させ、ファンを落胆させ、自分自身を落胆させたんだとわかっていた。あれから3、4日は、僕は誰とも話ができなかったよ。ものすごく大勢の人間を落胆させてしまったんだから、自分がやったことを後悔した。あの年の僕たちは優勝できたと思う。でも僕はそこから学び、そのことで成長し、より良い人間、より良いフットボーラーになれたよ。」
ベニテスはまだ移籍市場での自分の意図を表に出してはいなかったが、リーセが自分はアンフィールドでの将来のために戦っているのだと認識したのは、この時点だった。
「シーズンの終わりに自分が出て行くなんて、考えもしなかったよ。しかし、僕がチェルシー戦で入れたあのオウンゴールの後ははっきりと、これから自分にかかってくるだろうプレッシャーを感じた。」彼は語る。「次のシーズンは、自分は本当にステップアップしなければならないと思った。」
しかし次のシーズンは決して来なかった。少なくともリーセとリバプールの間には。先ほど語っていたように、ベニテスのあの時の率直さに彼は敬意を感じているが、それでも彼は、KOPに別れを告げる機会をもらえなかったことと、クラブ350試合出場まであと2試合をプレーできなかったことに苦しんだ。
彼は今フルハムに所属しているが、他のイングランドのクラブに加入するという考えは、2008年のリーセには思い浮かばなかった。彼はセリエAのローマに移籍した。
「あの時点では、他のイングランドのクラブに行くなんて出来なかったよ。僕はリバプールをものすごく愛していて、彼らと競い合いたくはなかったんだ。」リーセは語る。
イタリアの首都のクラブとの契約を1年残して、リーセはこの夏、イングランドへ戻ることを決意した。うわさは何ヶ月も続いており、そのうわさにはリバプール復帰の可能性も含まれていた。そういう話を聞いて彼は「うれしかった」「何が起きるかは誰にもわからない」と認める・・・しかし今は、復帰の可能性はなくなったようだ。
それでは、彼はリバプールのファンにどんな男として記憶されたいのだろうか?
「どんな?あのオウンゴールをした男ではないこと、それは間違いないね。」彼は笑う。「何があろうと110%の力を尽くした男、ナイスガイ、そして忠誠心があって決してあきらめなかった男として記憶されたい、そう思う。自分には十分な力があるんだと証明しようと努力していたし、そうであったことを願うよ。」
インタビューを終えて、リーセに頼みたかったことはあと一つ、もう一度「あの」歌を歌って欲しいということだった・・・今度はカメラが回っている前で。
「いやいやいや!」彼は言った。「僕はこれからイングランドに戻ってアンフィールドでゴールを決めなければならないし、その時になったらあの歌を聴けるかもしれないけど、TVの前では歌わないよ。でも今夜遅くになら歌うかもしれないけどね!」
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リーセはリバプールのファンから、彼が願っている通りの男として記憶されていると思います。彼が今もクラブを愛しているのと同じく、ファンも彼を変わらず愛してますよ!本当に愛すべきナイスガイでした。体重をかけて左足で思いっきり蹴ったボールが、ホップしてゴール上隅にずどーんと突き刺さった時の胸がすくような爽快感も、ゴールマウスをばごーんと飛び越してスタンドに吸い込まれた時のがっかり感も、どちらも決して忘れられません。パンツいっちょになったりヌード写真を披露したり、ゴルフクラブ事件とかCLメダルオークション事件とか給料明細流出事件とか、とにかく他にない楽しい話題を提供してくれる人でした。でもそんな反面、ピッチの上では警告を受けることがめったにないフェアプレーの人でもあり、退場したり出場停止になったことは、記憶にある限り一度もありませんでした。
あのチェルシー戦のオウンゴールの時は、ぎりぎりのところで勝利を逃した悔しさはもちろんありましたが、彼のことが本当に心配でした。あれは彼だけのせいでなく、クロスを入れさせたのもお粗末だったし、そこまで押し込まれたのも問題で、チーム全体の責任でした。2週間後のセカンドレグでは元気なプレーを見せてくれて、決勝進出まで本当にあともう一歩でした。バベルの意地のゴールも懐かしい・・・。
これからプレミアで彼のプレーが見られるのは、うれしくもあり、すこーーーし寂しくもあります。順調に行けば、彼がアンフィールドに戻って来るのは来年4月です。その前に、もしかしたらカップ戦での対戦が実現するかもしれません。久しぶりに彼のゴールやあのチャントが聴きたいですが、でも勝利を譲るわけにはいかないので、3-0くらいにリードした後でお願いします。
彼自身がカメラの前で「どうやってあんなゴールを決めたのか知りたいな~♪」と歌うのは、ぜひとも聴きたかったですね~。けち。そう言えばあのゴルフクラブ事件の発端は、カラオケで歌う歌わないからでした。
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無題
リーセ移籍は当時すごくショックだったのを覚えてます。
来期は是非プレミアで大暴れしてほしいですね。
Re:無題
無題
Re:無題
無題
人間性もプレイも、何と言っても熱いハートを持っていますね!
彼はアンフィールドで歓迎されるはずです。
チェルシー戦はよく覚えています。
オウンゴールや、雨の2ndLegのなかでのランパードに涙のPKを決められたことも…
コンチェスキーはフルハムに居たままで、リーセがレッズに来てくれてたらなぁ…
Re:無題
無題
アンフィールドのファンはまだリーセを愛してますし自分もリーセは大好きな選手です。彼ほどあのCarlsbergのユニフォームが似合う選手はそうはいなかった。彼のスタンドへのHRを「またかいw」って言ってた時期が懐かしい。
ジェラードがこの夏にノルウェーで行われたリーセのサッカー教室のようなものに参加していましたねそういや。
皆に愛されてたリーセをまたプレミアの舞台で見ることができるのは非常に楽しみです。
Re:無題
そうそう、いやそんなに無理に打たなくてもいいからって思っていました(笑)。
キャプテンとリーセは代理人が同じなので、今もいろいろお付き合いがあって個人的にも仲が良いみたいですね。インタビューがあったゴルフの大会もスティーブン・ジェラード基金の主催で、インタビューに乱入して一緒にチャントを歌った「別のゴルファー」というのは、実はキャプテンだったんじゃないかなんて想像しています。
無題
いやあ、どうですか??どうなんですか!?
あの、アルゼンチンですけどね(笑)フニクラさん的にはどの辺が問題でした??僕はねえ、あんまりアノ監督責める気にはならないんだけどなあ。まあ、どうみても、ウルグアイの監督の方が、数倍賢そうだったけどね(笑)後は、サバレタかなあ。なんか、メッシ一人だけ、ギアが違うんだよね。。突然猛スピードになるでしょ。
やっぱ、バルサって凄いんだなあって、改めて思いました。。
でも、今回のコパで、僕は恐ろしいくらいアルゼンチンという国に、惚れこんでしまいました。
もちろん、マッシュがいたからだけど、あのナショナル=アンセム!!あれにはやられました。。
実はね、あれ1998だったかな?以降全く使って来なかったバージョンらしいです。というのも、ちゃんと演奏すると、凄まじく長いらしいです。
フニクラさんが以前、日本と対戦した時に、マッシュの目が泳いでて、怪しかったって、言ってたじゃないですか?(まあ、アイツはいつも怪しいんだけどね 笑)あれね、、実は、選手達も監督もが余り聴いた事が無いバージョンだったので、みんな取り乱してらしいですよ。。メッシも歌手をガン見してたし、テベスもぽけーーーっと
してたらしいですしね。あれは、日本サッカー協会のアイデアだったのかなあ???だとしたら、
アッパレ!ですね。
恐ろしくリバプールとは無関係のコメントになってしまいました。同じ、マッシュファンとして、黙っていられませんでした(笑)
Re:無題
そこですか(笑)。彼はいいですよねー、ポルトガルメディアのうわさを見た時は興奮しましたもん。攻撃が売りですが戻りも早くてボール奪取上手いし、賢い選手だし、一列前でもこれだけやれるとは知りませんでした。世界的に左が不足の中で、ウルグアイは贅沢すぎます。
アルゼンチンに関しては、私は監督思いっきり責めてますよ(笑)。だって何でラベッシ?2戦目にも彼が先発だったのを見て悪態ついてました。それからメッシの使い方については、バルサのイメージの強烈さにとりつかれているんでは。でもやっとチームができて来たかなと思った頃にウルグアイと当たったのは、不運な面もありましたね。
日本戦の時は、そんなことがあったんですかーー!だからマッシュは挙動不審だったんだ(笑)。JFAのたくらみだったらすごいですね。でも日本は基本お客様を歓迎する国ですから、きっとなんか間違ったのが、良い方に転んだんだと思います。コパでブラジルの国歌が流れなかったのは、あっちの方はぜったいわざとでしょう、間違いない。