カイトの
オフィシャルサイトに掲載された、自叙伝第3弾。前回の
「ユトレヒト時代のカイト」の続きです。
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2003-2006 フェイエノールトとリバプール
僕はフェイエノールトの最初のシーズンで22ゴールを決めた。本当にうまく行ったよ。僕がオランダでプレーしていた最後の5シーズンで、1シーズンごとに20ゴール以上を決めた。2004/2005シーズンには、リーグで29ゴールを決めて得点王になった。僕はそのシーズンをハットトリックでスタートした。実際、ホームとアウェイで同じクラブから2度ハットトリックを決めるというのは初めてだったよ・・・そのシーズンは、デ・フラーフスハープから6ゴールを奪ったんだ。
初めてオランダ代表に招集されたのは、僕がユトレヒトでプレーしていた時だった。でも結局試合には出なかったけどね。ディック・アドフォカートが監督をしていた時だ。パトリック・クライファート、ピエール・ファン・ホーイドンク、ルート・ファンニステルローイ、ロイ・マカーイに囲まれていたんだから、すごかったよ。
結局、僕はマルコ・ファンバステンの元で、2004年9月30日のリヒテンシュタイン戦で初めて代表の試合に出場した。オランダ代表でプレーするというのは、本当に特別なことだった。スタートは、ただ隅っこに座って耳を傾けているだけだ。しかしそれでも、U-21から入ってきた何人かの選手とは知り合いだった。それでちょっとやりやすくなった。
2006年のドイツ大会は、僕がオランダ代表チームに入って初めての大会だった。本当に楽しかったよ。しかし、最終的に僕たちは結果を望んでいた。僕の2度目のスタメンは、ベスト16のポルトガル戦だった。
グループリーグの試合では、僕はウィングでプレーしていた。しかしポルトガル戦では僕はフォワードだった。あれは本当に常軌を逸した試合で、ものすごい数のカードが乱れ飛んだ。フォワードでスタート出来たことは良かったけど、僕たちは試合を落としてしまった。ああいう大きな大会に参加する時は、勝利する試合でプレーしたいと願うものだ。僕たちが期待していたような結果ではなかった。少なくとも、準々決勝までは行けると僕たちは思っていた。
リバプールが僕に興味を持っていると知ったのは、大会に入る直前だった。でも、僕はワールドカップに集中したいと思っていた。大会の後、フェイエノールトとリバプールの接触があった。
僕は、リバプールに行くことが出来て本当に嬉しかったよ。世界最大のリーグの一つでプレーするというのは、夢が現実になることだった。僕はイングランドが好きだし、プレミアリーグのチームのプレースタイルも好きだ。プレミアリーグでプレーしたいというのは、僕がいつも願っていたことだった。リバプールは世界最大のクラブの一つだ。ここの人々は本当にフレンドリーで、手助けをしてくれる・・・アンフィールドとリバプールの一般の人たちの両方がね。それは、イングランドに落ち着くのをものすごくやりやすくしてくれたよ。リバプールの人たちが本当に僕たちを助けてくれて、住む家を見つけるのもあっという間だった。
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ドイツ大会のオランダ代表はものすごくきついグループリーグに入って、あのグループは好試合連発で本当に見ごたえがありました。カイトはマスチェラーノと90分間戦っているんですよね。そして決勝トーナメントの試合は、まさに潰し合いの肉弾戦でした。主審がもう少しうまくコントロールしてくれたら、というちょっともったいない試合でもありました。退場したデコとファン・ブロンクホルストが仲良く並んで座って話していたのが、荒れた試合の中で妙に微笑ましく、印象に残っています。
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