インディペンデント紙に、ペナントのこれまでの人生を綴ったインタビュー記事が掲載されています。彼の人となりが窺えるとても良い記事なんですが、アーセナル戦が近いこともあって、その発言の一部だけがプレスにずいぶん取り上げられているようです。そこで、レッズファンには全部を読んでいただけたらと思い、全文を訳してみました。長いです。
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By Jason Burt 2007/10/27
ジャーメイン・ペナントは多くの事をくぐり抜けて来た。投獄、貧困と悲劇によって傷つけられた子供時代、アーセナルからの放出。しかし今、リバプールプレーヤーは長期的な明るい見通しを手に入れている。
ジャーメイン・ペナントの人生の映像 No.1:ノッティンガムの悪名高いMeadows Estateで、9歳の少年は彼の忠実な友であるボールを蹴って走っていた。「俺があそこへ帰ると、父さんの友達たちがこう言うんだよ。『俺たちは、舗道をボールが転がっていくのをしょっちゅう見ていたよ。そうすると、お前がその後から走って来るんだろうとわかったんだ。』」ペナントは振り返る。「それは他の子供にとってのテディベアとか、お気に入りのおもちゃみたいなもんだった。俺のはそれがフットボールだった。どこでも蹴っていたよ。近所の人間は俺のことを嫌っていた。いつも彼らの塀にボールをぶつけていたからね。後は生垣なんかにも。今でもそれを心に描くことが出来る。」
映像 No.2:16歳の誕生日の前日の夜、ペナントは彼の父Garyから、地元紙the Nottingham Evening Postを手渡された。にんまり笑ったジャーメインの写真が、その裏面を飾っていた。「俺はその新聞を手にとって、ひっくり返してみたんだ。そこに俺がいた。自分の顔を見て一言、『ワオ』と言ったよ。俺は国で一番高価なティーンエイジャーだってことだった。しかしいい気分だったね。『うわあ、ものすごいプレッシャーだ。』なんてことは思わなかった。」ペナントは言う。1999年1月のことだった。千年紀を迎える前年、彼はアーセナルとサインした。あのアーセナルである。アーセン・ベンゲル、デニス・ベルカンプ、大理石のホール、ハイバリー。そして彼らが支払ったのは200万ポンドだった・・・200万ポンド!ノッティンガム出身のやせっぽちの子供、Notts County、Meadowsからやって来た、ドラッグと銃、刑務所の脅威から逃げることが日常の場所から来た子供だった。
映像 No.3:2005年3月、ペナントは刑務所にいた。収容者番号MX7232を付け、Milton Keynesのウッドヒル刑務所に収監されていた。免許停止中に飲酒運転をし、知人の所有するメルセデスを電柱にぶつけて31日間の刑期を受け、アーセナルから放出されていた。「俺の家族と愛する人間に与えた影響、彼らが感じていた気持ち、俺が彼らをどういう状態にしてしまったか。」ペナントは言う。「ばあちゃんは1週間物を食べられなかった。俺は彼女の一番年長の孫なんだ。刑務所は地獄ってわけじゃなかったよ・・・他の収容者は俺にサインを頼んできたりしたけど、俺はスターとかそういうものじゃなかった・・・まあなんとか、俺はやらなきゃならないことをやったよ。不名誉なことだったがきつくはなかった。厳しい扱いは受けなかったよ。」
他にも彼の人生にはおびただしいトラブルがあったことを、彼は認識している。フットボールクラブよりもナイトクラブで遊ぶ方が多かった。「俺は考える時間を得た。」ペナントは言う。「今まであんなに考えたことはなかった。自分の人生、何が悪かったのか、もっと何が出来たのか。バーミンガム・シティが俺と契約することはすでに決まっていたから、あそこから出た時にセカンドチャンスがあるとわかっていた。出た時こそ、自分と自分のフットボールにベストを尽くそうと思ったよ。そして俺はそれを守り続けている。」
映像 No.4:アテネ、オリンピヤットスタジアム。今年5月23日ヨーロッパカップファイナル、ペナントはミランと対戦するリバプールのメンバーに選ばれていた。スターティングイレブンにである。スタジアムには彼の叔父Mickと、弟Jadenが来ていた。「俺はあれが再び起こらないとは言わない、しかし、俺のこれからの人生にずっと残り続けるだろう。」ペナントは言う。「俺が誇りに思う一日だった。俺たちは負けた、それはがっくりしたし腹も立ったけど、良いプレーができたことはすばらしかったよ。あれから2日後、俺はこう思ったのを覚えている。『いろんなことがあったよな。俺はあちこちに行った。アーセナルではうまく行かなかったし、『お前は十分じゃない、お前なんか成功しない』と言われていた。Pat Rice(アーセナルのアシスタントマネージャー)がいつもそう言ってたんだ。」
「そして俺はこう思ったよ。『見たか、あんたが間違っていたことを俺は証明した』ってね。彼らは俺を放出するべきだと考えた。特にあの刑務所の事件があって、『彼を放出しよう』と彼らは考えたんだ。しかし決勝でのプレーで、俺は『俺が今やっていることを見てみろ』と思ったよ。彼らのことを考えた。それはすばらしい気分だったね。山を越したような気持ちがしたよ。」
映像 No.5:ここはメルウッド、リバプールの練習場で、ペナントはインタビュールームの一室に座っている。トレーニングシャツを着たまま、彼は自分の人生、自分のフットボール、それらが彼自身に持つ意味を語る。そして彼は微笑んでいる。彼は、ぶっきらぼうでではねっ返りの悪童ではない。キャリアを棒に振る危険の中にいる若い才能ではない。愚かでもない。彼はまだ24歳の若者で、リバプールの2年目のシーズンを過ごしている。彼が幼いころからあこがれて育ち、いつかそこに入ってプレーすることを夢見ていたクラブである。輝かしいスタートの後、シーズンはチームにとって油断のならない展開になっているが、ペナントは物事は良くなると確信している。「ちょっとつまずくことはあるさ。」彼は言う。「しかしこのチームは大きく強力だ。」
明日、プレミアリーグで、リバプールは彼の元所属チーム、アーセナルを迎える。しかしペナントはシーズン通して引きずってきた足の負傷が悪化したため、この試合には加わらないだろう。彼は右足脛骨に疲労骨折を負っており、今週末に手術を受ける予定だ。ペナントの左腕のタトゥーはこう読める。「Somewhere between faith and luck lies destiny(信念と運の間のどこかに、運命は横たわる)」
1983年1月15日彼は誕生し、運命はジャーメイン・ロイド・ペナントを過酷な手の中にゆだねたように見えた。彼は自分の子供時代についてはあいまいであり、詳細を紛らす。それはああいう困窮を経験した人間には珍しいことではない。しかし彼は語る、彼は4人兄弟の一番年長だった。彼の母は、彼が3歳の時に癌で亡くなった。ペナントは彼の兄弟、二人の妹と一人の弟を育てるのを助け、衝撃的な貧困に直面した。彼は読み書きを習うことも出来なかった。
「きつかったよ。」彼は認める。「多くの犯罪、多くの銃犯罪、ドラッグ。そしてそれは悪化していた。育つのに決して良い環境じゃないが、俺の周りには良い人たちがいてくれた。彼らは俺を真っ当な道に保っておいてくれたよ。友人たちは、俺にフットボールの可能性があることを見ていたんだろうと思うが、彼らが巻き込まれているトラブルから俺を遠ざけて、こう言ったよ。『俺たちがこれから行こうとしている場所へ、お前は加わって欲しくない。』ってね。俺は14か15で、彼らは19か20だった。家族も同じだったよ。父さんは俺をフットボールに専念させてくれた。」
Gary Pennantがセミプロのミッドフィールダーであることも、彼の助けになった。Garyは必要なものを揃えようと努力し、彼の息子は、彼が買ってくれた"Gary Lineker Quaser"のフットボールシューズのことを、愛情をこめて話す。「彼はこの競技を愛していた。」ペナントは父について語る。そして彼の息子もそうだった。彼の才能は早速見出され、ノッツ・カウンティが彼にが注目した。彼らは、彼の育ってきたベストとはいえない環境にすぐに気づいた。「彼らは俺を保護するために、下宿させることに決めたんだ。俺はフットボールクラブと練習場からたったの10分しか離れていないところに住んでいたんだけどね。」ペナントは説明する。「彼らは、俺に悪い奴らと混じって欲しくなかったんだ。運命の分かれ道だったね。もしも俺がフットボールをやっていなかったら、簡単に悪い道に入り込んでいたと思うよ。俺は下宿から学校へ通い、それからトレーニングをした。同じ市とはいえ、たったの14で家から離れたんだよ。その代わりに、俺は16、17、18のTYS(若手育成プログラム)の選手たちと一緒に暮らした。クラブは俺にいろんなことをしてくれ、俺の面倒を見てくれた。すばらしい生活だったよ。フットボールをやれたからね。大勢のスカウトが父さんと話をしているのを見て、物事が良い方へ進んでいるのがわかった。」
Lilleshallにある国営フットボールアカデミーへの旅は、また別の思い出を呼び起こす。「俺は、自分がリバプールでプレーするという展望を持っていた。」ペナントは言う。「それから、俺は背中にロビー・ファウラーの名前が入った古いアディダスシャツを持っていたんだ。それとノッツ・カウンティのシャツ、そこでプレーしていたんだからね。後は古いイングランド代表のグレーのシャツ、そしてリバプールのシャツ。全員がそれぞれのクラブからやって来ていて、最終日に俺がリバプールのシャツを着ていた時は、みんなそこが俺のクラブだと思ってたんじゃないかな。」
しかし彼を呼び込んだのはアーセナルだった。彼らは3年間ペナントを追いかけていた。「実際にサインをした時は」彼は言う。「彼らは俺に、俺の成長の記録を見せたよ。あれやこれはA、B、Cって具合にね。13歳から16歳の誕生日までの俺の足跡があった。アーセナルのようなクラブにNOとは言えない。俺はただこう考えた、『これは正しい移籍なんだ』ってね。振り返ってみてもそれは悪いものじゃなかったが、それでも後で思えば、ノッツ・カウンティにもう1年残ってファーストチームでやるべきだったのかもしれないな。そうすればもっと、アーセナルでやるのに役に立っただろう。」
最初、ペナントはひどいホームシックにかかった。それから最後には病気になってしまった。プレーできないことに対する病気・・・その病は広がった。それは彼の生活全体に影響を与えた。「彼らは出来る限り俺が気楽にやれるようにはしてくれた。」彼は言う。「しかし、俺はあそこにほとんど7年いて、ファーストチームでスタメンに入ったのが5回(彼はリーグデビューのサウサンプトン戦でハットトリックを決めている)、そしてサブに入ったのが数えられる程度だ。それは時間の損失だよ。毎日俺は準備が出来ているのに、タフな時だったし物事は下り坂になり始めていた。自分の代理人と言い争ってこう言ったのを覚えている。『何とかしろ、俺をここから連れ出せ』ってね。ローンの手はずが整えられた・・・ワトフォード、そしてリーズとね。そして、リーズでは俺はうまくやれたし、自分がプレミアリーグでやれるってところを証明できたと思う。しかしアーセナルに戻った時には、何も変わらなかった。」
「俺はボスのアーセン・ベンゲルの言葉を覚えているよ。『6ヶ月間君は本当に良くやっている、私には何の文句もない。』と彼は言った。俺は考えたよ。『彼は何の文句もないと言う、じゃあなんで俺にチャンスをくれないんだ?』それは6ヶ月だったが、突然10ヶ月になり、俺はチャンスが消えたことを認めた。自分は必要とされていないと感じたよ。俺はのけ者だった。俺は自分のやりたいことをやった。そして間違いを犯し始めて、坂を転がり落ち始めたんだ。
俺はフラストレーションを感じていた。もうちょっとでもフットボールをプレー出来ていたら、違っていたかもしれないな。しかし俺は全くプレーしていなかった。土曜がやって来て、俺はチームに入っていない。トレーニングだけをして、『じゃあ月曜にな』って具合だ。そういうのは、本当に難しいんだ。俺は嘘をつくつもりはない。代償は払った。」パーティー三昧のライフスタイル・・・ペナントは以前こう言ったことがある。「俺はいつもパーティーに出かけていた。」そして自分を「発情期の犬」になぞらえた・・・時間の損失。それは悪循環になっていた。
ペナントは、ベンゲルの中にアンチ・イングランドという先入観があったという感覚を認める。「何かがあるはずだ。」彼は言う。「現状を見れば、イングランドの選手はチームに誰もいない。テオ(ウォルコット)を除いてだが、結構長い間在籍しているにもかかわらず、彼はレギュラーじゃない。俺はいつも、自分が見落とされていると感じていた。事実がそれを物語っているよ。あのチームにイングランド人選手が誰もいない、それは彼に何かがあるに違いない。必ずしもってわけじゃないが、イングランドの選手は彼の哲学に合わないんだ。外国人選手の方が好きなんだよ。おそらく、彼らの特性の方が良いと信じているんだろう。そしてそれが彼の選択なんだ。」
幸運にも、刑務所から出た時に、アーセナルからの3度目のローンでプレーしていたバーミンガム・シティが、彼に選択肢を与えてくれた。もしくはより正直に言えば、救済である。感謝して彼はそれを受け取った。「俺にとって最高の移籍だった。」彼は言う。「毎週プレーできて、スティーブ・ブルースはすばらしい、本当にすばらしい監督であり人間だった。彼は俺に率直に話してくれたし、それこそ俺が必要としていたものだった。俺は、必要があれば何でも、言わなくてはならないことがあれば何でも、彼の部屋のドアをノックできると感じていた。アーセナルではこんな感じさ、『自分は入ってもよろしいんでしょうか?』。パトリック・ビエラ、ティエリ・アンリがあそこにはいた。俺が監督と話せる権利がどこにある?」
解き放たれたと感じ、ペナントは自由にプレーした。バーミンガムは悪戦苦闘していたが、彼はそうではなかった。彼は右サイドを気迫に満ちて駆け上がり、絶えずクロスを供給し、知られざる存在ではなくなった。しかしそれでも、昨年ラファエル・ベニテスが彼を呼び寄せ、670万ポンドの移籍金でペナント獲得に合意したのは驚きだった。
電話がかかってきた時、彼はバーミンガムのウェストヒル練習場の更衣室にいた。「その日のセカンドセッションの時だった。」ペナントは思い出す。「午前午後の練習がある日で、俺の代理人が『彼らと金銭面で合意した』と電話で言ったんだ。で、スティーブ・ブルースとKarren Brady(マネージングディレクター)が俺に会いに来て、『取引は成立した、成功を祈る』と言ったよ。俺はなるべく自分の感情を表に出さないように努力して、『ありがとうございます』とだけ答えた。でもそれから出て行って仲間たちの顔を見たら、ダニー(デイビッド・ダン)は言ったよ、『どうやったんだよ、運が良かったってのか?』。」
ペナントは実際、自分が幸運だったことを認める。特に、ベニテスがこの取引を進める前に、彼がもう問題を起こすことはないという保証を取らなくてはならなかったことを考えれば。「しかし、振り返ってみれば」ペナントは言う。「俺は、物事っていうのは全て起こるべくして起こるもんだと思う。そして今、俺は自分のキャリアの中で最高のフットボールをしていると信じているよ。アーセナルでのフラストレーションのたまる時期の後で、俺は昨シーズン52試合でプレーした。ゴールキーパーのぺぺ・レイナに次いで多かったよ。だからそれ以上やらせてくれとは、実際言えないな。」さらに、おそらくもう一つの映像がある。それは将来の、シーズンの終わりの映像だ。それは、ペナントとリバプールがトロフィーを掲げているものである。
'You try to deal with racism, but your blood can boil' (人種差別をなんとか扱う、しかし頭に血が上ることもある)
若い黒人フットボーラーとして、ジャーメイン・ペナントは、試合の中で、社会の中での人種差別問題についてはっきりと気づいている。そして彼は"Kick It Out"(人種差別撲滅キャンペーン)の積極的なサポーターだ。2007年の活動週間は、多くの宣伝イベントを開催した後、月曜に終了する。
「俺はそれを深刻なレベルで経験したことはないんだ。」ペナントは人種差別について語る。「しかし、俺がイングランドのU-21でスロベニアのようなチームと対戦した時に、そういうチャントはあったよ。モンキーチャントとか、そういうやつだ。」
何をすべきか、それを知るのは難しいと彼は認める・・・そして実際、4年前のU-21の国際試合中に、クロアチアのニコ・クラニチャールから差別的な発言を受けたと主張して報復行為をしたことにより、彼は退場になった。「こんな感じだった、『俺はいったいどう考えればいいんだ?』」ペナントは語る。「その後すぐ、こんな風に思ったよ。『ちくしょう、俺はあんなことは気にしない。』」人はそうしようとする、だがしかし、時にはかっとなることもある。頭に血が上り、考える邪魔をする。しかし、他の選手からもっとひどい言葉が出てくることもある。
「それが選手たちにどんなショックを与えるか、俺は知っている。どうしていいかわからなくなるんだ。時には自分の中でぐっとこらえ、ほんの少し仕返しをすることもあるかもしれない。しかし一番いいのは、出て行ってピッチの上で彼らを破ることなんだ。そうすれば彼らが一層間抜けに見えるってわけさ。」
「不幸なことに、それはフットボールの中だけではなく、社会の中にもある。肌の色は様々だけど、俺たちはみんな同じなんだ。俺たちはみんな同じ理由でここにいて、人種の違いや出自の違いがあろうと、それで何も変わりはしない。」
ペナントは、英国ではこの問題はそれほど激しくはないと言う。しかしそれでも、彼は子供のころに心ないののしりを受けたことがある。「俺は小さい頃にそれを経験した。」ペナントは言う。「時々、『自分の国へ帰れ』と言う馬鹿に出くわすんだ。そして俺はこう考える。『自分はここで生まれて、パパもママも英国にいるのに。』すごく小さい時にそんな経験をしたのを覚えているよ。しかしありがたいことに、この国ではそれっきりさ。」
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早く回復して、またCL決勝のようなプレーを右サイドで見せて欲しいですね。ペナント、待ってるよ!!!
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こんな長文・・
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