リバプールエコー紙に掲載された
「フェルナンド・トーレス・ストーリー Part1」の続きです。今回の題名は“Boy wonder Torres put success down to his family(天才少年トーレスの成功は家族の力)”
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フェルナンド・トーレスには、すでに良く知っている英語の言葉が一つある・・・それは"期待"である。結局のところ、彼は今までの人生をその言葉とともに生きて来た。
彼は少年時代を11歳からアトレティコ・マドリーのチームの中で過ごし、12歳の時にレアル・マドリーからのオファーを断り、15歳で200万ポンドの買取条項を有し、17歳でアトレティコでプレーする最年少の選手となり、19歳にして最年少キャプテンとなった・・・そして彼は20歳の時にA代表初キャップを記録した。
彼は7年の間、スペイン最大のクラブの一つの希望を一人で担っていた・・・そして彼はまだわずか23歳である。
しかしながらトーレスは、彼の家族のサポートと献身なくしては、自分は決してそれを達成できなかっただろうと認める。
「そういう若い年齢で、自分が生涯のファンであるアトレティコ・マドリーのようなクラブに所属するということは」トーレスは述懐する。「それは言い表せないくらいワクワクすることだけど、それでも自分にとってフットボールは楽しくてやっているんだということも、決して忘れることはなかったよ。
でも僕の家族にとっては悪夢だったね。悪夢というのは、彼ら4人がそれだけの労力を払ってくれたから、僕がフットボーラーになれたということなんだ。その時は全く結果は見えなかったのにもかかわらずだよ・・・僕が今日いる場所に到達できるとは、その時は僕たちの誰も想像すらしていなかったんだからね。
僕の父は午後になると、僕をOrcasitasの練習場に連れて行くために仕事場を離れなくてはならなかった。それから彼はまた列車でFuenlabradaへ仕事に戻って行ったよ。別の時には、母がバスと電車を乗り継いで僕を連れて行ってくれた・・・雨の日でも焼けつくような暑い日でも、僕を連れて行ってくれたよ。彼女はいつもこう言っていた。『もういやになったらいつでも、これ以上行く必要はないのよ。フットボールを続けるのが義務だとは感じないで。』ってね。でも僕は決して飽きることはなかった。
そして時には、僕の兄や姉が僕を連れて行かなくてはならないこともあったよ。僕がプレーしている間、彼らはスタンドで勉強していたり、違うグランドに僕を迎えに来たりしなくてはならなかった。
家族なしでは、僕は絶対にファーストチームには入れなかったよ。フットボーラーにもなれなかっただろうね。」
1994年の夏の終わり、トーレスは初めてユースアカデミーに加わった。
それよりちょうど2年前、トーレスがまだ13歳の時、アトレティコはラ・リーガ優勝とコパ・デル・レイ優勝の2冠を達成している。それは彼らにとって、1977年以来のスペインリーグ優勝だった。それはこのヤングスターに大きな影響を及ぼした。
「そのことで、クラブの一員であるという誇りがさらに増したよ。」彼は告白する。「手で数えられるほどの年数の間に僕は、2冠、降格、昇格を経験して、選手としてもファンとしても歓喜と絶望を味わった。」
トーレスはわずか数シーズンでユースのランクを駆け上がり、1998年に初の重要なユースタイトルでの優勝を果たした。
スペインのユースコーチとして評判の高いPedro Calvoの指導の元、ヨーロッパ中のユースチームが集まるナイキ・カップに、アトレティコはU-15のチームを送り出した。レアル・マドリー、バルセロナ、ミラン、マンチェルター・ユナイテッド、ユベントスのアカデミーチームが勢ぞろいする中で、アトレティコは彼らのスター・プレーヤーであるトーレスを擁してトップで大会を終えた。彼はまだ14歳だったが、ヨーロッパのベストアカデミー選手に選ばれた。
翌シーズン、彼はアトレティコを国際ユースリーグタイトルに導き、初めてプロ契約を交わした。その後2001年には、彼はスペイン代表で、イングランドで開催されたU-16欧州チャンピオンシップ優勝を果たし、大会得点王になり最優秀選手に選出された。トーレスはその決勝で決勝点を上げている・・・そしてU-19チャンピオンシップで再びその偉業を繰り返した。
彼はヒーローとして、そしてアトレティにとっては彼らがその時いた2部から救い出してくれるかもしれない救世主として、スペインに帰還した。
しかしながら、物事はうまくスタートはしなかった。脛骨のひびのために、トーレスは12月までプレーが出来なかったのである。そして、ついにファーストチームデビューを果たすまでには、それからさらに4ヶ月を待たなくてはならなかった。
トーレスは言う。「U-16チャンピオンシップの後、僕はU-18で一試合プレーし、ユースチャンピオンズカップの決勝でもプレーしたよ。それから2、3日後に、僕はファーストチームの練習に加わるように言われたんだ。そしてプレシーズンの練習にも一緒に加わって、ファーストチームの一員に入るかもしれないと言われたんだよ。
それは火曜のことだった。水曜には僕はトレーニングに加わって、土曜にはチームの一員に入ってエル・カルデロンでデビューをしたよ。2001年5月27日のLeganes戦だった。」
彼のシニアデビューは、当時の会長Miguel Angel Gil Marinが、スペインの新しい王子と目されている選手を見たいというファンの渇望に応えるために命じたものだという噂がささやかれた。しかしながら、増して行くプレッシャーがトーレスを怖気づかせることはなく、デビュー2戦目のアルバセーテ戦で彼は出て行って試合を変え、相手に二人の退場者を出させて決勝点を叩き込んだ。
彼はこう付け加える。「デビュー戦の翌週に僕はアルバセーテ戦で初ゴールを上げたんだけど、その数週間後にヘタフェ戦をやって、僕たちは一部への復帰を得失点差で逃して、プロになって初の大きな落胆を経験したよ。あの年、僕は成功と失敗の全てを知った。僕とってすばらしいシーズンではあったけど、チームとしては目標を果たすことが出来ずに、その落胆はものすごかった。
僕は一ヶ月間ファーストチームにいた。一部のフットボーラーが彼らのキャリアを通じて経験しないようなことを、僕はその間に経験したよ。そして僕のキャリアはまだ始まったばかりだった。」
2部で2年間をすごした後、アトレティコはトップへの復帰を果たし、10代のトーレスは13ゴールを記録した。それ以来、彼は毎年クラブの得点王であり続けた。
彼は173試合で75得点し、2度ラ・リーガでのスペイン人トップスコアラーになっている。そして、2桁得点を上げられなかったことは一度もなかった。過去4シーズンにおいて、それよりもゴールを上げたのはサミュエル・エトーとダビド・ビジャだけである。
2002年の夏に話を戻して、トーレスは再び国際舞台で輝き、スペインをU-19欧州チャンピオンシップに導いた。彼は再び決勝で唯一のゴールを決め、大会得点王(4試合4得点)となり、大会最優秀選手に選ばれた。
それに続くシーズン、彼はリーグ35試合出場で19ゴールを上げ、さらなる成長を遂げる・・・そしてキャプテンのアームバンドを巻くことになった。彼は19歳だった。
アトレティコも進歩を遂げたが、シーズン最終戦までもつれ込んで、セビージャとの直接対決の得失点差(2-1, 0-2)で彼らを下回り、7位で終わってUEFAカップ出場を逃した。
2004年のアトレティコの最終成績で彼らはインタートトカップ出場を決め、トーレスは欧州のクラブの大会を初めて経験した。しかし彼らはビジャレアルとの決勝をPK戦で落とした。
その後、2006ワールドカップがやって来た。
「世界最高の大会で自分の国を代表し、世界最高の選手たちと対戦する、夢が現実になる瞬間だ。」彼は言う。
「僕は98年のフランスと韓国での敗退はテレビで見ていたけど、初めて僕は祖国の歴史を変えようとすることが出来たんだ。チームのモチベーションは驚くほどで、僕たち全員がやる気満々だったよ。スペインのためのワールドカップになるかもしれないとわかっていたからね。」
しかし、彼の初めてのA代表の国際大会であったEURO2004のように、スペインは準々決勝にたどり着く前に敗退した。
一方で、ホームに戻るとアトレティコは、プレミアリーグを始めとた他のクラブからオファーで溢れて返っていた。アトレティコがUEFAカップの場所を確保できなかったことにより、トーレスのマドリードでの未来は必然的に終わりが来ようとしていた。
彼の若いキャリアの中でそれは初めてのことではなく、アーセナルは移籍に向けて強く働きかけを続けていたし、チェルシー、マンチェスターユナイテッドも同様だった。
しかし23歳の狙撃手にとって、ビセンテ・カルデロンを出るならば目的地はたったひとつしかなかった・・・アンフィールドと巨大なKOPである。
*パート3は明日・・・神の足跡に続きます。
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パート3は明日アップできないかも知れませんが、そのうち掲載するつもりですのでよろしくお願いします。
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